Grizzly Man

2011年1月29日

だいぶ前に友達から「すごい」とその話を聞いていた、映画『Grizzly Man』をみました。



話で聞いていた時は、そのショッキングな顛末に驚いて「何故そんなことを・・」と思うだけで、その何故に対して、つまりはその深遠さに対して考えることはありませんでした。

でも見てみたところ、まず本当に驚いたのは、ティモシーが撮った、アラスカの自然のなかに居るグリズリーの映像が、あまりに美しかったことです。それこそ息をのむような。
息をのむような、というのは、高画質であるとか、映像的センスがあるとかないとかいうことでもないとにかく凄みのある美しさ、ということなんだけれど。

その映像につられるようにして映画を見ていくと、ティモシーがなぜ自分の身をグリズリーの世界におかなければならなくなったか、ティモシーの残した映像の美しさと分ちがたく存在していたティモシーの闇や孤独の部分、それによってやはり起こった悲劇に対する周囲の言葉、否定や困惑、または理解がインタビューによって語られていきます。

その否定や困惑は、ティモシーが持っていたヒロイズムへの否定、困惑ということもありますが、つまりはあってはならないこと(人間が熊に食べられるという)があったという、人間界のタブーを犯したものに対する否定でもあります。

理解というのは、この映画の監督のヘルツォークの言葉でいえば
「(彼の敵は人間界と文明であり)彼は、文明そのものと戦っていた。」
「それは、ソローやジョン・ミュールが自然に身を置いたのと同じ文明である」
ということです。

映画では、公園局の職員が統計で「6パーセント」と、人間に狩られても安定できるとするグリズリーの数を挙げることでティモシーの行き過ぎた保護活動を理解できないものとしています。

一方そのことと、映画を見てただ「バカだ」といって彼の人生の意味を考えようとしないことをくらべてみることができます。
それはつまり、人間のうち「何パーセント」かは、彼のように、保護の必要のないグリズリーを守るために勝手に自然に入りそこで命を落とすことがあったって良い、と考えることと同じです。その「何パーセント」かの人間は、人間界に戻ってもどうせそこで平穏無事には暮らせないんだから、という理由で。
そんなふうにティモシーのしたことを捉えることは、ティモシーがグリズリーと人間の境界を越えようとしたことと同じように、グリズリーと人間との間にある差異を見いだそうとしないという点で同じく失敗をしているわけです。


別に私は環境活動家でもないし映像作家でもなく、私はそれを見たただの人間です。
人間とグリズリーはちがう、これがティモシーの残した映像のなかにあった圧倒的なカオス、深遠な美だからこそ、人間はそこから何かを受け取ることが出来ます。


最後にヘルツォークは、ティモシーの撮ったものを、
「見ているのは自然の光景ではなく、我々自身、我々の本質なのだ」
といい、
「私にとって彼の使命を超えて、彼の生と死の意味を教えてもらった」
ともいいます。
そういう種類の映像だったのです。
それと同時に、その美しさは何かしんとしたさみしい気持ちにさせたということも付け加えておきます。


同じくアラスカの自然に身を置いて命を落とした青年クリス・マッカンドレスだって自然に身を置く文明の人間だったかもしれない。
人類最初の素潜り100M越えをしたフリーダイバーのジャック・マイヨールだって「陸より海にいる方がが好き」という点ではその系譜かもしれない。
どちらのことも私は映画を見て知っただけだけど。

ジャック・マイヨールのことを映画にしたリュック・ベッソンも、
クリス・マッカンドレスという人物を、自身の監督作品のキャリアの一つとして選んだ、俳優出身のショーン・ペンの選択も、意味あるものだったのだろうと思います。





こんなことを考えるついでに、タブーに関する問題が映されている作品として、森達也監督の「A」のことも思い起こされました。
国家の警察という権力組織とカルト教団とが、路上で対立するシーンで、両者に全く似通った変なものがあるじゃないかという、マスメディア的にタブーなものが映っているシーンは、今も私の中に根強く残っています。
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by arttrace | 2011-01-30 03:20 | ART TRACE


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